《close-up》
長生きの秘訣は、希望と目標を持つこと (1)
「長生きはできないと諦めて積極的な治療はしなかった」という羽鳥健さんは、60歳代後半になってようやく信頼できる先生方に巡り会うことができました。今は自己注射をしながら、温泉旅行を楽しみに日々を過ごしておられます。今年で79歳、通院されている病院の血友病患者さんの中で最高齢でいらっしゃる羽鳥さんに日々の生活の中で気を付けていること、また、生き生きと長生きするための秘訣などについてお話を伺いました。
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「長生きはできないと諦めて積極的な治療はしなかった」という羽鳥健さんは、60歳代後半になってようやく信頼できる先生方に巡り会うことができました。今は自己注射をしながら、温泉旅行を楽しみに日々を過ごしておられます。今年で79歳、通院されている病院の血友病患者さんの中で最高齢でいらっしゃる羽鳥さんに日々の生活の中で気を付けていること、また、生き生きと長生きするための秘訣などについてお話を伺いました。
昭和12年に東京浅草で生まれました。5、6歳の頃、滑って足首を鉄板で切り入院することになったのですが、病名がわからず、10万人に1人の奇病と言われました。どの病院に行っても原因はわかりません。痛みは冷たいタオルで冷やせば4、5日で治りますし、激しい運動をしてもなんともない時もありました。膝や足首が腫れる度に父が接骨院に連れて行ってくれて痛いところを伸ばされるのですが、これがたいへんな苦痛でした。内出血している足を伸ばしていたのですから、痛いはずです。
幼少時代は戦争中で小学校2年生の時に東京大空襲にあいました。たまたま足や腕が腫れていなかったので、上野の山に逃げることができましたが、焼け出され、食べるものもなく、学校にもほとんど行けずに転々と疎開していました。今の若い方には想像がつかないような時代を過ごしていたのです。
中学校を卒業し、鞄職人の父の仕事を手伝っていましたが、20歳の頃から会社勤めを始めました。採用に影響するので、会社には病気のことを隠していましたが、まだ注射もない時代です。体調が悪い日は風邪をこじらせたなどと言ってごまかすのですが、1週間くらい休んでしまい会社に居づらくなり、辞めざるをえなくなる。そんな繰り返しだった時期もありました。
戦争が終わってからも数えきれないくらい病院に行きましたが、病名はわかりませんでした。その頃の私はもう長生きはできないように思っていたので、21歳で盲腸になった時は病気のことを先生に言わず、死ぬ覚悟で手術を受けました。出血が止まらず、大量の輸血をしてもらって、家族もつきっきりで看病をしてくれて、そのおかげで何とか助かることができました。
23歳の時にたまたま出会った先生が熱心な方で色々調べてくださって、その時初めて「血友病A」と診断されました。しかし、大きな出血をしたら輸血するほかないような時代でしたので、治療については正直なところ、もう諦めていました。
昭和40年代に入ると新しい薬が出てきましたが、血液の中に薬を入れるのが不安で、ほとんど使いませんでした。自己注射が認められた時も、よほど悪い時だけ会社が終わった後に病院に行って先生に注射してもらうくらいで、治療には積極的になれませんでした。我慢すれば痛みも取れると思い、ほとんど注射もせずに生きてきました。